なぜ日本では未だに私小説がもてはやされているのか?

 私は私小説が嫌いだ。と言っても別に私小説が好きな人が嫌いな訳ではない。私小説が好きなのならば勝手に読んでいればよいが、自分が読む羽目になるのが嫌なのだ。もう学生ではないし、特定の本を読むことを強要されることもないのだから、私小説なんぞに関わらないでいれば良いだけなのだが、たまにうっかり読んでしまうことがある。

Tilt-Shift Miniature Image of Big City Traffic in the Evening by Yuga Kurita (Getty Images)

 うっかり読んでしまった私小説の例としては西加奈子の『サラバ 』が挙げられる。直木賞受賞作なのでてっきりエンタメよりの作品だと思っていたのに読んでみたらちょっとポップなノリの私小説だった。

 西加奈子の洒脱な文体は好きだ。上手い書き手だと思う。私が許せないのは作家や作品ではなくこの作品に直木賞を与えた選考委員たちだ。芥川賞は純文学の短編または中編を対象とした賞で、直木賞は長編のエンターテイメント小説に贈られる賞である。過去の受賞作で私が好きな作品は池井戸潤の『下町ロケット』東野圭吾の『容疑者Xの献身』などだ。私はそういう作品を推薦してくれることを直木賞に期待しているのだ。佐藤究の『テスカトリポカ』東山彰良の『流』などの受賞作は必ずしも私の好みの作品ではなかった。が、それなりに楽しめたし、作品のレベルが高いということ自体は理解できるので、これらの作品が受賞した事に異議はない。しかし、私小説が直木賞を受賞するというのは意味がわからない。

 『サラバ 』では序盤からずっと主人公の生い立ちが語られる。内容自体は面白くないのだが、文章は良いので読むのはそれほど苦痛ではない。さて、そろそろ死体が転がるのかな? という私の期待に反して、凡庸なエピソードの描写が続き、幼稚園の頃に好きな子に特定の色のクレヨンを渡したというようなどうでも良い話が延々と続いた段階で私は挫折した。とてもじゃないがこのノリで小学校や中学校の頃のエピソードまで続けられては耐えることができない。

 おそらくこのような些細なエピソードでも「あー、わかるわ〜」と共感できる人はそれなりに楽しく読み進めていくことができるのだろう。あるいは私が日本語を学習中の外国人だったとしたら、なるほどアッパーミドルの日本人はこのように感じるのか、と詳述される感情の機微に感動することができたのかもしれない。私はどちらでもなかった。主人公に共感できなかったし、かと言って主人公が嫌いなわけでもない。この主人公に対してまったく興味が持てないのだ。「お前の人生なんてどうでもいいよ」という白けた思いしか湧いてこなかった。

 最近読んでしまったもうひとつの私小説が又吉直樹の『劇場』だ。ちなみに私は52歳なので「最近」の定義がかなりゆるい。下手をすると十五年ぐらい前の話でも脳内で「最近」と認識していることがある。

 又吉直樹のデビュー作であり芥川賞受賞作となった『火花』はそれなりに楽しめた。芥川賞受賞作なので読む前から純文学であるというのは了解しているし、長い話ではないので読了するのもそれほど苦ではない。芸能人に受賞させることで売上が期待できるという出版社側の事情を考慮しても十分に受賞に値する作品だったと思う。

 もし『劇場』『火花』と同じぐらいの長さだったら最後まで頑張って読むことができただろうが、私には辛すぎた。二章の途中で一旦読むのを断念して、一念発起して再び読み始めたが四章のあたまに痛いメールを送っているところで挫折した。

 若い頃に過剰なまでにオリジナリティに拘って音楽制作をしていたので、私は主人公である永田の気持ちは痛いほどよく分かる。だが、それが逆に読むのがつらい原因となった。今となっては自分の中である種の黒歴史となった過去の自分の自意識過剰なメンタリティ——後悔こそしていないものの、今となっては恥ずかしくて心の奥底にしまい込んであるブラックボックスをこれでもかとばかりにこじ開けてくるような作品だった。

 永田の想いは理解できるものの、共感はできない。自分自身も他人も傷つけてしまう痛い人間であるということを本人も自覚しているはずなのに、矢鱈と人と関わりたがる。あなたの個性を否定するつもりはまったく無いけれど、独りになったらいいんじゃないの? どこか田舎にでも引きこもって隠者として過ごせばいいじゃない。

 孤独は嫌だけど、自分自身を曲げるのも嫌、それなりに才能はあるがそんな我儘を押し通せるほどの圧倒的な才能や権力はない——というような状況にある人間が駄々っ子のように目に見えない刃物を振り回している。それが永田だ。

 自己を投影した主人公を美化することなく、むしろ駄目な部分を過剰なまでに掘り下げるという作業はとても辛かった思うし、独りの人間としてこういう作品を書き上げたことはすごい、とも思う。作者にとっては自分自身と向き合い克服するためのある種のセラピーだったのかもしれない。だが、私にとっては古傷を穿つナイフのような作品だった。

 こういう作品を書くという行為自体はすごいことだと思うが、商業ベースにのせて出版し広告宣伝をして世間全般に広く発表するというのは、精神的な意味で露出狂のような行為だと思う。要約すると「このように私はこじらせちゃった駄目な人間です。だけど才能はあります。だから私を愛して、受け入れて」というような作品だったのではないだろうか。最後まで読んでいないので本来であれば要約する権利はないのだろうけど、そういう作品だと思う。

 世の中には彼よりよりも不幸な人間がたくさんいる。彼よりも更にこじらせちゃっているのに言語化する能力が無いために心の内にずっとしまっている人もいるだろう。だけどそれで良いんだと思う。人からの共感や受容などを欲せず、ありのままの自分を自分自身で受け入れる。ただそれだけでいい。「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの言葉を永田には贈りたい。

 と、ここまで書いたところで「なぜ日本では未だに私小説がもてはやされているのか?」という表題に対する答えがまったく記されていないことに気がついた。

 まず思いつくのは日本社会の特異性だろう。コロナ禍を通して私がつくづく感じたのは日本は「自発的全体主義」だということ。世界史のコンテクストとしては第二次世界大戦までの日本はファシズム国家だということになっているが、実態はイタリアやドイツとはだいぶ異なる。特に海外において、東條英機(場合によっては昭和天皇)をムッソリーニやヒットラーのような独裁者とみなす論調を目にするが、実態はだいぶ異なるものだったのだと思う。日本人は独裁者や特定のイデオロギーなどを必要とすることのない無自覚的で自発的な全体主義者の集まりなのだ。日本人だったら当然こうでしょ、というのを当然のように押し付けあっていて、かつ我々はそのような押し付けに対する抵抗力が弱い。「私はわたし、貴方はあなた。お互いの権利を侵害しないのであればお互い自由にやりましょう」というリベラリズムの根本原則があまり社会に浸透していない。芸能人の浮気やドラッグ使用など、自分の生活にはなんの関係もないはずの出来事に大げさに反応するのはその良い例だろう。その根底にあるのは「俺が我慢してるんだからお前も我慢しろ」という足の引っ張り合いのような同調圧力だ。

 アリストテレスを持ち出すまでもなく人間は社会的な動物である。その一方で我々は個性を持った個人でもある。日本の社会は欧米などの諸外国と比べると「公」の部分が大きく「個」の部分が小さい。普段の生活の中で抑圧されている個は社会的に糾弾される心配の無いところで自己主張をしたがる。キャリア選択や生き様で自己主張しない代わりに、ちょっと変わった車に乗ったり、あまり一般的ではない名前を子供につけたり、マイナーな銘柄の酒や煙草やお菓子などを好むというのはよくあることだ。そのような制限的な自由のみを与えられた個が日常の中での些細な出来事やその感じ方によって自分の個を控えめに表現する——というのが私小説の醍醐味のひとつなのかもしれない。上記の例で言えば、西加奈子の『サラバ 』はこのパターンに当てはまるのだろう。そのような日本社会の本流から外れて社会の隙間でさりげなく息をしている私のような存在が共感できないのは当然なのだ。親が敷いたレールをただ歩いてきた人生だった——とまでは言わないまでも、ベルカーブの標準偏差範囲内からはみ出さないように常識的な選択を積み重ねてきた——そういう人にはより刺さりやすいのでしょう。

 私小説が受け入れられるもう一つの理由が怖いもの見たさでわないだろうか。あるいは自分とはまったく違う種類の人生を生きてきた人への好奇心でしょう。又吉直樹の『劇場』はどちらかといえばこちらのタイプだと思う。この主人公に共感して感情移入できる人ってあまりいないと思うんですよね。これが「僕」という一人称の私小説ではなく、三人称の冷めたルポタージュ風の文体だったらもう少し興味深く読めたと思う。あるいは精神科医が語り手でも面白そうだ。酒鬼薔薇聖斗を名乗った元少年Aの『絶歌』などが例としてはより適切かもしれません(実際には未読ですが、一人称で書かれていることだけは確認しました)。犯罪者に印税が渡ってしまうのを危惧して読まなかった人も多いと思いますが、興味をそそられるのは事実でしょう。例えば北海道の牧場で、清純派のアイドルが全裸の状態で発見され、馬に蹴られて大怪我を負っていたとします。そして自分の獣姦趣味を赤裸々に告白した『スタリオンと私』なる本を上梓ししたとしたら、たとえそのアイドルにはそれほど興味がなかったとしても思わず手に取ってしまうかもしれません。

 一応まとまったような気がするのだが、ここまで書いたところでなにを持って私小説とするのか、その定義について一切触れていないことに気づいた。ブリタニカ国際百科事典小項目事典には「文学用語。作者自身の経験や心理を虚構化することなく,そのまま書いた小説」とある。Wikipediaによる定義は以下の通り。

私小説(わたくししょうせつ、ししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして、ほぼそのまま書かれた小説をさす用語である。心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることがある。日本における自然主義文学は、私小説として展開された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B0%8F%E8%AA%AC

 そもそも自然主義文学とはなんぞやという人も多いと思う。19世紀後半にフランスを中心に始まった文学運動で、自然の事実を観察し真実を描くためにあらゆる美化を否定する、というものらしい。しかし私小説はたしかに美化を否定しているけれど、そこで描かれているのはあくまでも主観的現実にすぎないと思うんですよね。真実と断定することはできない。このあたりを掘り下げるとかなり面倒なことになりそうな気がするので放置しますが、私が漠然と思っている私小説の定義を言語化すると以下のような感じでしょう。

作者の経験や感情の動きを改変することなく微に入り細を穿って詳述した一人称による小説。プロット、謎、脚色、巧妙に設置された伏線、デフォルメされたキャラクターなどのストーリーをより面白くするための技法の使用を頑なに拒否し、繊細な感情の動きや感覚の描写を延々と続けることに価値を置いている。

 だったらさー、一人称で自伝を書けばいいじゃん。あなたに興味があったら読むし、あなたに興味がなければ読まないからさ。というのが私の私小説に対する基本的なスタンスです。自分の経験に基づいて小説を書くこと自体は良いことだと思う。そのほうがリアリティや説得力がある。だが、読者を飽きさせないために謎を提示したり、しっかりとプロットを練り上げることの何が悪いのだろうか?

小林秀雄が『Xへの手紙・私小説論』という本を書いているようなのでこれを期に一読してみることにする。私小説に対する私の考えが変わることがあればまたこのテーマで文章を書くかもしれない。

日本国民による小山田圭吾への集団リンチに関する私的メモ

さて、オリンピックも始まって小山田圭吾を叩きまくってた人たちも何事もなかったかのように次の話題に飛び移った。ここらあたりで、あの醜悪な日本国民による小山田氏のバッシングを振り返ってみたい。

正直言ってわたしは小山田圭吾の大ファンというわけでもないし、大炎上中に養護する発言をして自分も燃えるのは嫌だな、と思っていたビビリだ。それでも定期的に起こるあの手の集団リンチは本当に嫌いなので、ほとぼりが冷めた今になってチクリと一言言ってやりたい。

まず前提として、オリンピックだけでなくパラリンピックの開会式も兼ねているのだから、小山田圭吾はオファーを請けるべきではなかったし、IOC/JOCもオファーするべきではなかった。自ら地雷原へ突入していった小山田氏の自業自得の失敗という見方もできる。

しかし、それにしても数十年前の不祥事をあそこまで国民一丸となって叩きまくるメンタリティははっきり言って気持ち悪い。わたしの目には大同小異の業の深い人生を送ってきた者ほど自分の過去を棚に上げて叩きまくっているように見えた。

「おまえら現在進行系でイジメしてるじゃん。気がつかないの?」

というのがわたしの第一印象だった。

「いくらでも叩いても良い奴を見つけ出し、そいつを叩くことで多数派グループにおける自分の立場を良くする」

それがイジメの背景にあるメンタリティなのだと思うが、全国規模でまさにそういう状態だった。

そして人は自分にとって都合の悪いことはすぐに忘れる。たとえば人を虐めた経験と人に虐められた経験の両方がある人間は、自分が被害者だった経験しか覚えていないケースが圧倒的に多い。だからこそこういうことが度々起こる。

胸に手を当ててよくよく考えてください。あなたは大上段に構えて他人を糾弾していますが、本当にそんなに立派な人間ですか? 自分もいろいろと不味いことをしてきたのではないですか? と問われて、「まぁ、わたしもいろいろとやっちゃったかな・・・」と少し反省したとします。

実際にはその時に反省した分の3倍ぐらいはやってます。それぐらい人間の記憶というのは自分に都合の良いようにできている。もし不徳な行為は一切していないというのであれば聖人ですが、聖人は集団リンチ的な醜悪なイジメをしませんから、あなたは聖人ではありません。単に自己反省能力が全く無いだけです。

自分のことを疑ってみる能力って大事ですよ。

Red Giant製品が勝手にdeactivateされてしまった時の対処法

Red Giant Completeをサブスクしているのにあまり使っていないな〜 もったいないから使おうと思って、久しぶりにMagic Bullet Looksを立ち上げたところ、バッテンじるしがついたデモモードになっていた。

After EffectsのエフェクトペーンからLicensing…をクリックして、Red Giant Applicationマネージャーに飛ぶ。ここでActivateというリンクを押したのだが。「Failed to activate.」というメッセージが出てアクティベーションできない。

英語圏でいろいろと調べたところ、「一度Red Giant Application Managerからログアウトして再度ログインすると問題なくアクティベーションできる」という情報を見つけたので、試してみたら成功しました。

After EffectsでCamera Rawをインポート後に再び開く方法。

インターバル撮影した一連のRAWファイルをインポートする際はAfter Effectsが自動でCamera Rawを開いてくれますが、After Effectsにインポートしたときに再び調整したくなることもあります。この操作方法がちょっと分かりづらいので備忘録としてブログ投稿します。

Step 1) プロジェクトパネルでCamera Rawシーケンスを選択

Step 2) [ファイル] → [フッテージを変換] → [メイン] を選択

Step 3) ダイアログの一番下にある [詳細情報] をクリック

以上。

通常はインポート時の設定で事足りるのですが、たまにあとから変更したくなるときがありますね。

何もしなければ40万人死亡という説は大嘘だったのではないか?

『何もしなければ国内で40万人死亡』というセンセーショナルな見出しが踊ったのは4月15日のことだ。この記事を書いているのは5月11日なので、いまこういう記事を書くのははっきり言って後出しジャンケンだ。西浦教授を非難するつもりはない。

この40万人という数字は欧米での数字を参考にして算出したと思われるので、アジアにおける死亡率が著しく低いことがほぼ明らかとなった今、もはや意味はない

当時は「ロックダウンしないと東京ではニューヨーク以上の死者が出る」と海外在住の方々が警告していて、本気でそれを信じた人も多かった。そういう空気があったので仕方がない面もある。

「なぜ中国に近く中国人の来訪もより多いはずの東京のほうがニューヨークよりも数週間遅れるんだ?」という疑問は持っていたし、当時から「BCG予防接種が効いている仮説」等は存在していたので、私自身は半信半疑だった。

とはいえ「最良を望みつつ最悪に備える」のが政治の基本だろうから、ゴールデンウィークまでの非常事態宣言と自粛は当然だろう、という考えだった。特に私が住んでいる山中湖村はゴールデンウィークと夏休みが圧倒的にハイシーズンで、来訪者の数が一桁増えるぐらいだし、同居している家族が小売業で働いていることもあって、私もピリピリとした空気にやられて、かなり警戒するようになった。

しかし、5月に入ってGWも後半に入ったあたりから、「いくらなんでも死者の数が少なすぎる。そもそもこのCOVID-19は本当に言うほど危険なものなのか?」という疑念が強まってきた。それと同時に、ひょっとしたら日本政府が死者数をごまかしているのではないか? という疑問も持った。

しかしながら、5月4日に書かれた「超過死亡数」に関する記事を読んで、日本においては肺炎とインフルエンザを死因とする死者数自体はむしろ減っていることがわかった。政府はCOVID-19の死者数をごまかしていない

ということは政府により発表されている新型コロナウィルスSARS-CoV-2による死者数は概ね正しいということになる。むしろ、「死亡数÷総検査数」が0.1%未満になるシンガポールあたりのほうが数字は怪しいような気もする。

冷静になってくると、検査する人数や基準が一定ではないので、発表される感染者数や陽性率に一喜一憂する意味はあまりないことがわかる。日本を含むアジア地域での死者数が欧米と比べると著しく少ないことを考えると、今いちばん大切な指標は【抗体保有率】ではないだろうか。

抗体を保有しているということはすでに感染したということを意味する。統計学的に有意な数の一般人を無作為に抽出して、抗体保有率を調べれば、最終的に集団免疫を獲得するまでに犠牲になる人数がわかる。本当に40万人が亡くなるのであれば、スウェーデンと同じように集団免疫獲得を目指すという政策は愚策という意見が多いだろう。が、実際の死亡率が欧米と比べて著しく低い可能性が高いのだから、スウェーデンと同じことをしても死亡率は著しく低いはず。日本を含むアジア地域ではこの政策のほうが賢いかもしれない。

たとえば現時点での免疫保有率が10%で最終的な集団免疫のゴールが60%だとすると、最悪の場合でも4000人ていどの犠牲者で集団免疫が獲得できることになる。これはインフルエンザの死亡数と大差がないので、いまの自粛は明らかに馬鹿げた過剰反応だと言える(これは単純な掛け算で算出しました。もしこの考えが根本的に間違っているならば指摘してほしい)。

逆に免疫保有率が1%しかないとしたら、最悪の場合の死者数はその10倍の4万人ていどになるはずなので、より慎重な対処がもとめられるだろう。だが、それにしても40万人死亡という数字には程遠い。NYCでの免疫保有率が20%と言われているので、0.1%というのはどう考えても無さそうだ。

もちろん、ひとりひとりの人生は尊いもので、単なる数字ではない。だが、現実的に少数の老人の命を延命するために日本中の現役世代や子供が犠牲になるというのは異常な話だ。真面目に自粛している老人が大半なのだろうが、遊び歩いたり、店などで怒鳴り散らしている老人を見かけるとそのような思いは一層強くなってしまう。

こう言うと、若者が死亡することもあるという反論があるが、日本ではまだ30歳未満の死亡例がない(5月8日時点)。東洋経済の提供するデータをもとにすれば93%が60歳以上、82%が70歳以上、57%が80歳以上だ

また、自粛を正当化する根拠となっていることの一つに医療崩壊の懸念があげられる。用語だけが独り歩きしている感もあるが、これは要するに「感染症に対応可能な病床数が限られているのに、多数の感染症患者が送り込まれて、病院の感染症科が機能しなくなる」ことを意味し、それ以外の医科については、深刻な院内感染等が発生しない限り医療崩壊しない。

医療従事者が医療崩壊を懸念するのは当然なことで、「どの命を助けてどの命を見捨てる」という決断を押し付けられるのは嫌に決まっている。このため自粛しながら感染の流行を抑制し、感染症に対応可能な病床を増やしていた。私も4月末まではそれが当然だと思っていた。しかし、医療崩壊を懸念するにしても、5月末までの非常事態宣言の延長はいささか大袈裟すぎると思う。

医療従事者の立場で見ればまだまだ病床数は十分ではないのだろう。が、これは結局のところ、延命治療を是として、何が何でも病院に担ぎ込まれた命は全力で助けなければならないという日本の医療ポリシーにそもそもの原因がある

臭いものに蓋をして、日本は現代社会に適合した死生観を確立することができずにきた。後期高齢者の延命治療の是非、終末期医療の重要性、尊厳死や安楽死の是非などについて本格的な議論が行われなかった。

スウェーデンのように自力で食事を取れなくなった人間はICUで治療をしないというスタイルが確立していれば医療崩壊は起きない。80歳以上は重篤化した場合の致死率が88%で、ICUの占有率(死亡+重篤の合計数ベースで算出)が38%だ。つまり、ICUを占有している時間は長いのに、処置してもまず助からない。重篤化した80歳以上の新型コロナウィルス患者はICUを使わない、と決めただけでも病床数に+38%の余裕ができるので、医療崩壊はほぼ起きないはずだ。

5月8日時点での年齢別データ。調査中や非公開もあるので合計数は他のデータと異なる。

これは非情な決断だろうか? 私が80歳以上のCOVID-19患者だったらそれでも構わないだろうと言えるだろうか? 今は言えても実際に80歳になったら言えないかもしれない。それぞれの年齢や家族構成等により考え方は異なるだろう。しかし、老人から順に亡くなっていくほうが自然な社会であることは間違いない。

この決断をするだけで過剰な自粛は必要なくなる。三密回避、手洗い、マスク着用の徹底だけで、後は普通に今まで通りの生活をしても医療崩壊は起きないはずだ。またこのような基本的な感染対策を徹底するだけで、実効再生数(ひとりの感染者が移す人数)は下がるはずだから、集団免疫獲得のゴールも60%以下になるはずだ。

神戸市立医療センター中央市民病院が、外来患者の約3%から新型コロナウイルスに感染したことを示す抗体を確認したと発表したのが5月5日。この時点での日本におけるCOVID-19の総死者数が543名。病院の外来患者なのと神戸という都市部におけるデータだということを勘案して、日本の全体のその時点における感染率が1〜2%程度だとしても、集団免疫の獲得に至るまでの死亡数は15,000人〜30,000人程度だと予測できる。

もちろんWHOが警告しているように、現時点では抗体を獲得しても十分な免疫力が得られる保証はない。が、逆に言えば抗体を獲得してもふたたび感染する可能性が高いということが確認されたわけでもない。ふたたび感染する可能性が高かったら、そのような事例が多数報告されているだろうから、抗体獲得後にふたたび感染する可能性はあったとしてもあまり高くないだろう。

この15,000〜30,000という数字は神戸市立医療センター中央市民病院が発表した偏ったケースにもとづいているので、信頼性はあまり高くない。10,000~50,000ぐらいまで幅を広げて考えたほうが良いかもしれない。が、いずれにせよ40万人死亡ということはほぼ絶対になさそうだと言える。

つまりインフルエンザよりはたちが悪いが、少なくともアジアにおいてはスペイン風邪のような絶望的なパンデミックではない。犠牲者の大多数が高齢者なのを勘案すると、たとえこの数字が最終的に50,000人になるとしても、いまの反応はいささか過剰であると思う。

なにしろ去年一年間で日本では137万6000人が死んでいて、この数はコロナ禍がなくても毎年一万人以上増えている。そこに1万から5万人程度の高齢者が加わるのを全力で阻止するために、このような自粛を続けるというのははたして合理的な行動なのだろうか? 国や県に要請されたとおりに自粛生活を続けているが、その合理性には甚だ疑問を感じるようになってきた。

より正確な予測を出すために、国や自治体が率先して、統計学的に有意な抗体保有率を調べて、できれば週次で情報更新してもらいたい。

感染症のプロの意見だけ聞いていれば良いフェーズは終わった。これから経済的な悪影響を最小限に抑えた上で、効果的に感染拡大を予防しながら、経済活動を行う上での最良の妥協点やライフスタイルの獲得がプライオリティになるはずだ。

もはや日本の命運はGWの天気次第か!?

先日の局地的大雪で梨ヶ原が真っ白になった富士山。2014年の大雪以来かもしれない。レアな光景なので撮りに来る人が増えないように、雪が溶けてから公開。

非常事態宣言が全国に拡大されたが、そんなものお構いなしで多くの人が山中湖村にやってきていた。今日は天気が良かったからだろう。山中湖畔の長池の駐車場は県外ナンバーで満車状態だった。みなさん一体なにをしているんだろうと、観察してみたところ、どうやらジョギングやウォーキングをしている人たちが多い。

おそらく都会ではのびのびと散歩やジョギングすらもできないのだろう、と想像するに、ちょっと同情もする。が、やはり今は来てほしくないというのが本音だ。

バイクでのツーリングの人もたくさんいた。中には20台ぐらいの大きなグループがいて、そんなグループや多数の県外ナンバー車が特定のコンビニに密集しているのを見ると、山中湖村で感染が広がるのも時間の問題だと思う。

外でのびのびと運動したい、天気が良いのでバイクで遠出したい、という気持ちはわかる。が、地元の住人としては不安になる。富士北麓で救急対応できる病院は富士吉田市民病院と河口湖の山梨赤十字病院しかない。他の病気や怪我の人もICUが空いてないがゆえ、助かる命も助からないという状態にすぐに陥ってしまう。私はわりと健康なので自分のことは心配していないが、家族が心配だ。

第一回自粛が予定通りに終わるかどうかは、結局GWの天気次第だと痛感する。晴天が続くようだと感染爆発が起こるのは間違いないだろう。その場合は、多数の命が犠牲になり、そのまま梅雨が終わるまで自粛期間が伸びることになると思う。

諸般の事情により、政府は強制力のある規制を出せないようなので、もはや祈るしかない。日本の命運がお天気次第とは、なんともやりきれない話だ。非常時にもう少し強制力のある規制を打ち出せるようにすべき、という意見が説得力を持つのは不可避だろう。

自粛しない人間を口撃する人がいて、このような日本特有の同調圧力が嫌いという意見がある。そういう人たちは正義警察や不謹慎厨と揶揄されることもある。

日本特有の同調圧力は私も嫌いだ。だが、今回の件は自粛要請を無視して遊んでいる人が多いほど、真面目に自粛している人間が長い期間の自粛を強いられる。自分の不利益に直結するのだから怒って当然だと思う。

医療従事者だったらなおさらだろう。自粛要請を無視して遊んでいる人が感染して担ぎ込まれてきても、治療しなければならない。しかも、自分の感染リスクは増すし、家族が差別を受けるような事例すら出ている。もうやってられないと、辞めても責めることはできないが、辞める人が増えるとより深刻な医療崩壊が起こり、残っている人たちがより劣悪な環境で従事しなければならなくなる。だから真面目な人はやめたいと思ってもやめられない。

つまり真面目な人間が損をして、遊び呆けている人間の尻拭いをしなければならないという事態なのです。

今回の自粛しない人への口撃は、たとえば天皇が崩御した際に遊んでいる人たちを非難するのとは根本的に性格が異なる。尊王思想の持ち主であれば、そういう人たちに気分を害されるだろうが、別に自分の収入が減ったり、命の危険にさらされる心配はない。ただ感情的に受け入れがたい行為を批判していたこれまでの不謹慎狩りとは違う種類です。だからみなさん自粛しましょう。

自分にできることをしっかりやってあとは祈るしかない。そういう状況ですね。

2020年4月19日に投稿

朝日新聞の見出し詐欺がひどい

私はいわゆる右翼ではなく支持政党なしの人間です(選挙には行ってます)。朝日新聞については左寄りの立ち位置にあるそれなりに権威のある新聞だと認識していました。が、最近はあまりにも見出し詐欺的な行為がひどいのでニュースソースとしての評価を大幅に下げました。そのように考える契機となった記事を2つご紹介します。

年金開始75歳法案、14日審議入りへ 「緊急事態」も先送りせず

『年金開始75歳法案、14日審議入りへ 「緊急事態」も先送りせず』という見出しを読んだだけでは、年金をもらえるのが75歳からになってしまう! と思いますよね。私もそう思って政府にたいする怒りがこみ上げてきました。リンク先の無料で読める記事の内容を読んでもあまり印象は変わりません。

が、実際には「支給開始年齢を75歳にすることもできるようにする」という改正のための審議です。基本はいままで通り65歳からの支給のままです。70歳または75歳からの支給を希望すれば、支給開始が遅れる代わりにより高額の年金を受給できます。これ、明らかにミスリーディングを狙っていますよね。

日経は「年金受給開始75歳 改革法案が審議入り」という見出しです。こちらのほうが誤解を与える可能性は遥かに少ないでしょう。


「外出自粛、22年まで必要」 米ハーバード大が予測

この記事も意図的に扇情的な内容に翻訳しています。ハーバードが寄稿したレポートはこれなので英語ができる方は読んでください。

https://science.sciencemag.org/content/early/2020/04/14/science.abb5793

Abstract
It is urgent to understand the future of severe acute respiratory syndrome–coronavirus 2 (SARS-CoV-2) transmission. We used estimates of seasonality, immunity, and cross-immunity for betacoronaviruses OC43 and HKU1 from time series data from the USA to inform a model of SARS-CoV-2 transmission. We projected that recurrent wintertime outbreaks of SARS-CoV-2 will probably occur after the initial, most severe pandemic wave. Absent other interventions, a key metric for the success of social distancing is whether critical care capacities are exceeded. To avoid this, prolonged or intermittent social distancing may be necessary into 2022. Additional interventions, including expanded critical care capacity and an effective therapeutic, would improve the success of intermittent distancing and hasten the acquisition of herd immunity. Longitudinal serological studies are urgently needed to determine the extent and duration of immunity to SARS-CoV-2. Even in the event of apparent elimination, SARS-CoV-2 surveillance should be maintained since a resurgence in contagion could be possible as late as 2024.

『救急救命診療のキャパを超えないようにするために、ソーシャルディスタンシングを2022年まで延長あるいは散発的に実施する必要があるかもしれない』というような意味です。Abstractというのは要旨のことです。ぶっちゃけぜんぶ読む気はしないので私もここだけ読みました。

この内容を「外出自粛、22年まで必要」という見出しで紹介するのは明らかにミスリーディングを狙っていると言えます。social distancingイコール外出自粛ではないし、原文では『may be necessary』と言っているのに、必要と断言しちゃっている。この記事を読んで、というか見出しだけ見て、2022年まで今のような生活をするなんて耐えられない! という人が続出しています。それって世の中のために良いことなのでしょうか? 甚だ疑問です。

短期間ではアクセスを稼げるでしょうが、こういう行為を続けていれば長期的には信頼を失うでしょう。正直言ってこんなニュースサイトだったら私でも作れるわけで、右と左のサイトを1つずつ作って、それぞれを扇動すればそれだけで広告収入だけで食べられるのかもしれません。

フェイクニュースサイトとまでは言いませんが、中立な人間の情報ソースとしてはまったく役に立たないレベルになりつつあります。自分の感情を満足させるために偏った情報だけインプットしたい人には良いでしょう。

クリックベイト系のタイトルを付けることでアクセスを稼ぎ、広告収入を増やしたいという意図は理解できますが、すでに一線を超えてしまっているのではないでしょうか?

社説等で左寄りの意見を展開するのはまったく構わないのですが、扇動目的の嘘や誇張ばかりが見出しになるようならばもはや存在価値はないでしょう。

持続化給付金のまとめ(フリーランス編)

・2020年1月-12月の間に前年同月比で売上が50%以下の月がひと月でもあれば対象
つまり、4月の時点で申請できなくても今後影響が出て売り上げが半減した場合は申請できるということです。

・給付金は最大で100万円
計算の仕方は後述しますが、本業でやっている人はたいてい満額の100万円もらえます。

支給される額は「前年の総売上」から「前年同月比で50%以下の売上の月の売上 x 12」を引いた金額、または100万円の小さい方です。

たとえば去年1年間の売上が250万円、去年3月の売上が20万円で今年の3月の売上が10万円だった場合、250万円 – (10万円 x 12ヶ月) = 130万円となる。この場合100万円を超えるので、100万円の給付金を申請できる。

・申請はまだ先。4月最終週にWebメインで受け付ける予定。
窓口に殺到したら感染原因となるので当然といえば当然ですが、オンラインでの受付をメインにするとはなかなか日本政府も頑張っていると思います。

・必要書類は以下の3つ
①本人確認書類、
②2019年の確定申告書類の控え
③減収月の事業収入額を示した帳簿等

毎年、年が明けてから一生懸命帳簿をつけている人も、すぐに申請できるように第1四半期の帳簿付を完了させて待っていたほうが良いでしょう。

4/28追記:
➂については売上台帳だということが判明しました。

通帳の写しも必要になるようなので、いまのうちにスキャンしておいたほうが良さそうです。
地元県議会議員の情報によると5/1から受け付ける可能性が高いようです。
https://www.meti.go.jp/covid-19/pdf/kyufukin_kojin.pdf
https://www.meti.go.jp/covid-19/jizokuka-kyufukin.html

・ご相談は0570ー783183(平日・休日9:00~17:00)

私はすでに売上半減の月があるので、100万円申請できます。申請解禁と同時に動けるように準備して待つことにします。

日本政策金融公庫のほう(借金)は先月30日に申請したけどいまだ音沙汰なし。最悪、価格が暴騰しているスイッチとリングフィットアドベンチャーをヤフオクかメルカリでさばくかな・・・(;´∀`) 売っても転売じゃないよ。純粋にダイエット目的で買ってクリア寸前ですから。

これがもらえたら本当にありがたいです。みなさん頑張って生き延びましょう。

ソース情報

この記事は2020年4月13日に書きました。

Windows機にSMB接続しようとするとFinderが点滅して操作不能になる問題の解決法

MacとWindowsをSMB経由で接続してファイルの受け渡しをしているのですが、突然Finderが壊れたかのように点滅・あるいは明滅しだして、操作できなくなりました。強制終了しようと左上のりんごマークをクリックすると、Finderが立ち上がって終了するというプロセスを無限ループで繰り返しているようです。

結果的にはターミナルで以下の処理を実行することで、私の場合は解決しました。

sudo mv ~/Desktop ~/Desktop.old; killall Finder

エンターキーを押し、パスワードを入力

rm ~/Library/Preferences/com.apple.finder.plist; killall Finder

エンターキーを押す。

find . -name “.DS_Store” -delete; killall Finder

エンターキーを押す。

以上。

実行は自己責任でお願いいたします。

2020年に観た映画の感想

2020年に観た映画の感想をこのページに書き記しておきます。新しく観るたびに更新していくつもりです。自分の記憶というのは本当に当てにならないというのをこの歳になると痛感します。

写真が残るような場合はAdobe Lightroomで時系列上に揃えた写真を眺めることで、写真を契機に細部を思い出すこともできるのですが、映画の場合は写真に記録できないので、すぐに忘れてしまう。自分のレビューを世に広めたいという訳ではなく、純粋に記憶の補完のための備忘録です。

昔だったらGoogle+でやっていたのでしょうが、今はもうありません。Facebookは後から見返すのが困難で検索もクソですし、Twitterは短すぎる、という訳でここでします。

ネタバレ等もあると思うので、観たことがない映画が含まれている場合はご注意ください。ぶっちゃけ私は映画評論家でもなんでも無いので、無理して読む必要はまったくありません。

基本的に映画は同居人と行くので、互いの趣味が交互にきます。

スターウォーズスカイウォーカーの夜明け(Star Wars: The Rise Of Skywalker)

賛否両論が沸き起こっています。スター・ウォーズシリーズはスピンオフも含めて全て見ましたが、私個人の意見としては、些か退屈な作品だったと言わざるを得ない。風呂敷は広げるよりも畳むのが難しい。

スターウォーズシリーズも子供の頃はSFとして見ていたが、今はファンタジーと言うか、70年代・80年代の世界がそのまま進化したスチームパンク的世界として見ちゃいますね。

1月3日にTOHOシネマズ甲府で鑑賞。甲府と名乗っているが実際には昭和町。

テリー・ギリアムのドン・キホーテ(A Man Who Killed Don Quixote)

これは私がどうしても観たくて観に行きました。この映画はテリー・ギリアムが過去に映画化に失敗したことで有名です。実に30年近い歳月を費やして、紆余曲折を経て完成したものなので、ギリアムのファンとしては絶対に観ないとまずい。

日本での広告宣伝活動はあまり行われていないようです。私はテリー・ギリアム本人のFacebookで実はこの映画が完成していて、日本でもついに公開される、ということを知りました。

邦題が『ドンキホーテを殺した男』ではなく『テリー・ギリアムのドンキホーテ』になっています。たぶん日本での興行的大ヒットは最初から諦めていて、テリー・ギリアムのファンの人達だけきてくれれば、まぁ、いいか、といった感じのマーケティング戦略だと思います。実際、ほとんど話題になりませんでした。

しかし、映画の方は素晴らしかったです。歴史的名作である『未来世紀ブラジル』や『12モンキーズ』を超えるとは言わないものの、テリー・ギリアムの代表作の1つと言っても良いのではないでしょうか。興行収入だけが映画じゃないんです。将来的に再評価される日が来ると信じています。

主演はアダム・ドライバー。スター・ウォーズの新シリーズでカイロ・レン役をやっている人ですね。この映画のほうがより良い味を出していると思います。ドン・キホーテ役はテリー・ギリアムの盟友ジョナサン・プライス。最近はGames of Thronesにハイスパロウ役で出ています。

ちょっとネタバレになってしまいますが、映画の内容はマジックレアリズム的でありながら実際にはずっとリアルなのが面白い。そして最後は「ドン・キホーテ・スピリット」のようなものが継承されて次世代に受け継がれていくというのを示しているのだと思います。ダライ・ラマとかそんな感じで。

テリー・ギリアム自体がおそらく自分のことをドン・キホーテだと定義しているのではないでしょうか? たとえ時代の波に逆らうような生き方でも純粋に自分のやりたいことをやり通す。そんな生き方に私も憧れていますが、時代の流れにそれなりに合わせながら、隙間をさがして生きています。

1月27日にTOHOシネマズ海老名で鑑賞。

パラサイト

これも私の趣味。私は映画ファンと言うほどではないので、正直言ってアカデミー賞でニュースになるまで知りませんでした。が、非英語の映画がアカデミー賞で4部門などというのはかなり異例のことなので、これは1アジア人として要チェックだと思い鑑賞。

監督の名前は意識していなかったのですが、ポン・ジュノ監督の映画は『スノーピアサー』を観ていました。主演はキャプテン・アメリカで後にブレイクするクリス・エヴァンスでしたね。

この映画の中に『独島は我が領土』という韓国のプロパガンダソングの替え歌が出てきていて、それにまつわるムン・ジェイン大統領とポン・ジュノ監督のやり取りが一部の報道でやり玉に挙がっていました。が、映画の内容自体は別に反日プロパガンダとかではありません。

結局、韓国で反日があれだけ盛り上がっちゃう原因は、映画の中で描かれているような悲惨な境遇の人が多いからなのでしょう。そして日本でも両極化が進んで、恵まれない境遇の人達が増えたので、同じレベルで争うようになってしまった。どちらの国でも余裕のある人達は「金持ち喧嘩せず」って感じだと思われます。

2月13日にTOHOシネマズ甲府で鑑賞。

ナイブズ・アウト 名探偵と刃の館の秘密(Knives Out)

これはミステリーオタクの同居人の趣味で観に行きました。が、私も大いに楽しめました。マイアミバイスのドン・ジョンソンを久しぶりに見ることが出来た!

主演は007シリーズのダニエル・クレイグで、キャプテン・アメリカのクリス・エヴァンスも重要な役で出ています。が、実際の主役はマルタ役のアナ・デ・アルマスですね。イノセントな美少女という美味しい役で大物二人を食っていました。

監督と脚本はスター・ウォーズ最後のジェダイなどを手掛けたライアン・ジョーンズ。実はアガサ・クリスティーの大ファンだそうです。イギリス映画っぽいノリですが、アメリカ映画です。

この映画はプロットがとても優れていて、そこが命だと思うので、ストーリーの詳細は語りません。ミステリーファンでなくても楽しめると思います。

ちなみにKnives Outというレディオヘッドの曲もあるので、どういう意味なのだろうかと思って調べましたが、通常は「the knives are out」というようにbe動詞を伴って使用し、単にナイフが出ている状態、転じてその場に居合わせた人々がみな攻撃的になっているような状態を指すようです。

2月21日にTOHOシネマズ南大沢で鑑賞

チャンス (Being There)

コロナ禍が発生し、映画にけない日々が続いた。映画館は閑古鳥がないた状態が続き、新作上映のは延期された。その代わりに過去の名作を映画館のセレクションでやっていて、この作品もその一環としてTOHOシネマズ甲府で上映されていた。6月2日に鑑賞したが、客は我々を含めて4名だけでした。これだけ空いていれば、感染のリスクは皆無だと思います。

この映画の中でエウミール・デオダートがカバーした『ツァラトゥストラはかく語りき』(2001年宇宙の旅で有名なリヒャルト・シュトラウスのあの曲)が流れるんですが、これが映画館の音響で聴くと最高でした。リバイバルは安いので音楽鑑賞メインで行くのもありだと思います。今にしてみれば、同様にリバイバル上映していた『セッション (Whiplash)』を映画館で観る絶好の機会だったのに、のがしてしまったのが悔やまれる。

テネット (TENET)

9月のシルバーウィーク中はネットで非常に話題になっていた作品。連休後の9月24日に沼津シネマサンシャインのIMAXシアターで鑑賞。低音再生が重要なので、IMAX向きの作品だと思います。難解だという前評判を聞いていたので、ネタバレ覚悟で予習してから行くか迷いましたが、結局そのまま鑑賞。結果的にはネタバレ覚悟で予習しておいたほうが良かったかもしれない。