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「ガイジン」だけでなく「外国人」も差別表現なのか?

「ガイジン」という言葉は差別的だと問題になったのはいつの頃からだろうか? たしか1990年代にはすでに問題視されていたと思う。そこでガイジンという言葉は差別的だと感じている人が多いから「外国人」にしましょう、という話になった。その時、私を含めて多くの人がこう思ったと思う。同じじゃん、と。

で、今になって「外国人」も排他的だという批判が起きているようだが、何しろ当時の段階ですでに同じだと思ったのだから、遅すぎたぐらいだと思う。

「じゃぁ、なんて言ったら良いんだよ!?」とキレ気味に訊いてくる人がいるかもしれない。この問題って、「ガイジン」または「外国人」って言葉が差別的だと感じる人から言わせれば、そもそもそんな概念必要ないでしょう? ってことなのだと思う。つまり言葉が問題と言うよりも、そのような概念を言葉で頻繁に表現する必要のある日本人のメンタリティが差別的または排他的なのだ。なので、例えば「外国から来てはる人」と言っても根本的にはなんの解決にもならない。

私は2016年にオーストラリアを6週間ほど撮影して回ったが、そのときに感じたのは「彼らには外人・外国人という概念がない」ということだ。それは必ずしも全面的に良いこととは限らず、日本人が大好きな「おもてなし」などという概念も当然ない。だから、外国人だからわかりやすい英語でゆっくり話してあげようなんて考えるオーストラリア人は滅多にいないし、アウトバックの連中も理解不能な方言で早口でしゃべる。

「おもてなし」というのは要するに「客」として扱うことであり、「You are not one of us.」と言っているのと同じだ。短期滞在者にとっては益があっても、長期間日本に住んでいる人の場合はそうでもない。どれだけ日本語を勉強して日本の風習や文化を理解しても、いつまで経ってもガイジン扱いなのに嫌気がさして結局日本を去っていく、という例はとても多いと思う。このフローラン・ダバディ氏も通訳をこなすぐらいの日本通なので、そういった意味でかなりストレスを感じているのかもしれない。

じゃあオーストラリアには差別はないのかと言ったら、そんなことはなくて未だに人種で差別する人も中にはいる。こちらがアジア系だとわかった瞬間にエアビーで予約を断られる、なんてこともあった。オーストラリア人かどうか、というのはさほど問題ではないというだけだ。

しかし、未だに人種差別的な人間も存在しているとは言え、人種差別はいけないことだというコンセンサスは徹底しているので、エアビーで予約を断られたときも「兄夫婦が急に泊まりに来ることになって部屋がない」というような見え透いた言い訳を言われた。一方、日本では外国人を区別することが悪いというコンセンサスがまったくないので、そのあたりは改善する必要があると思う。

このように考えている私であっても日本語で話しているときは、「外国人」という言葉を使わざるを得ないシーンもあるわけで(上の段落とか)、悪気はなくても日本人として日本に生きていると、このような概念を一切使わないで生活するというのはなかなか難しい。結局、日本文化そのものをより現代的なものにアップデートするしか無いと思う。

先日はガーディアンのラグビー関係の記事で日本のおもてなし文化が褒められていたが、この問題って同じコインの裏表のようなもので、結局おもてなし文化ってのは丁寧ではあっても差別的な文化なのだ。褒められることもあれば批判されることもある。

たぶんベストなのは短期滞在者にはおもてなし、長期間住んでいる人はいつまでもお客さん扱いしないで「one of us」としてみなす文化なのだと思う。日本がそういう方向に向かってくれたら良いな、と思う。

Memsourceを使ってみた

久しぶりに翻訳の仕事を受けたら、TRADOSじゃなくてMemsourceというクラウドベースの翻訳ツールの使用を指定された。
と言っても翻訳業界の外の人にはなんの話だかピンとこないかもしれない。SDL社のTRADOSというのは私が翻訳業界に入った20世紀末に出現して、あっという間に業界のデファクトスタンダードになった翻訳支援ソフトなのだが。結構お高い割にはバグが多いソフトで、コンコーダンス(訳語検索)なんてついぞ使いもになることがなかった。しかしながらデファクトなので仕方なく最小限の頻度でアップデートしてきた。最初に買ったのはTRADOS FL5でいまだにTRADOS2011をしぶとく使い続けています。
 
もう10年ぐらい前からずっと英訳を担当してる某医療機器の新規ドキュメント案件が発生して、慣例的に私のところに依頼が来た。私にとってはおなじみの案件なので特殊な用語も割と楽に対応できるのだが、今回からTRADOSではなくMemSourceを使用してくれとエージェントに頼まれた。
この年齢(先日47歳になりました)になると、人間多少は保守的になるもので、使ったことがない製品に対応するのは少々面倒くさい。しかし、キャッシュフロー的に受けておきたいタイミングだし、このエージェントとは長年に渡って信頼関係を築いているので、受注することにした。
で、Memsourceをちょっと使ってみたのだけれど・・・、これ素晴らしいです。
まず第一にMacで産業翻訳ができちゃう。TRADOSを使うためだけにVMWare FusionとMS Windows&Officeを購入していたのですが、その必要がない! 拍手!
しかも翻訳者はクライアントソフトを購入する必要がない。ブラウザでも作業できるし、Mac用のデスクトップアプリ(無料)もある!
素晴らしすぎるでしょ、MemSource。まだ使い込んでないけど、今のところは大絶賛しちゃいます。はやくTRADOSに取って代わってデファクトスタンダードになってほしいなぁ。
使っているときにたまに上書きモードになってしまうときがあります。上書きモードと挿入モードの切替はWindowsならばInsertキーでできますが、MACの場合はOption + oで切り替えます。

初めてMemsourceを使う翻訳者さんはこのあたりをチェックすると基本的な使い方がわかります。

『やばい』は褒め言葉らしい

「やばい」は褒め言葉? =「婚活」「イクメン」も9割浸透―国語世論調査・文化庁

『やばい』を素晴らしいというような意味を込めて、ポジティブな形容詞として使用する人が、全国民の約25%、20代では約8割、10代ではなんと約9割と若い世代では完全に定着しているらしい。

若い奴等やばい!

と思わず、40代の私としては残り75%の方の定義で呟きたくなるが、言語は生き物だから仕方ないのだろう。何を見ても『かわいい』という形容詞で済ませようとする女にもいらっとさせられるが、そのうち日本語の口語で覚える必要がある形容詞は『かわいい』と『やばい』だけになったりして。そうなったら外国人が日本語を学習するのはだいぶ楽になるね。

なんとなく、ジョージ・オーウェルが小説1984に書いた『Newspeak』的な方角に自主的に向かっているようで、日本は各個人が自主的に没個性的な人間になる全体主義社会なのではないかなどという憂慮すら感じてしまう。が、英語圏でも『awesome』のような元々宗教的な響を持った言葉が『plusgood』みたいなノリで使われるようになって久しいし、ある面グローバルな現象なのかもしれない。強権的な政府が恐怖と暴力を駆使して行う全体主義とは違う、民衆が自主的に自主性を放棄した全体主義みたいなものが出現するのかもしれない。

しかし、これだけネットが普及した社会で、言葉の意義がこんなに綺麗に世代で別れる事実は瞠目に値する。昔はTVなどのメディアが圧倒的な存在感で支配していたので、日本人の没個性的な傾向は、意図的に流行を創始して消費を煽るメディアによるところが大きいと思っていた。が、若い人のほうがTVを見ている時間は短いらしいので、一概にそうは言えないのかもしれない。

デジタルネイティブ世代といっても定義が色々あるようだが、物心ついた時から携帯電話やスマートフォンを持っていて、メール、SMSメッセージ、SNSなどで常に他人とつながってコミュニケートするのが当然だという世代は、良くも悪くも没個性的になって、価値観などを共有しやすく、強固な集合的無意識を形成しやすいのかもしれない。『talking ‘bout my generation』などと歌う必要のないぐらいの阿吽の呼吸で意思を疎通しているのかもしれない。

まぁ、若い子とあまり話してないので、かなり的はずれな意見かもしれません。単なる思いつきでございます。とりあえず、『やばい』のこの定義は、他の世代には通じないという自覚を持っていただければ、それで結構です。

邂逅(かいこう)

「邂逅」という言葉がある。

これは「生き別れになっていた妹と思いがけず邂逅する」のように、既に出会ったことのある人との偶然の再会で使う言葉のはず。しかし、ラノベを読んでいると、初めて出会うシーンで邂逅って言葉を平気で使っちゃう人が多い。単に「会う」の文語だと勘違いしているのではないだろうか?