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なぜ日本では未だに私小説がもてはやされているのか?

 私は私小説が嫌いだ。と言っても別に私小説が好きな人が嫌いな訳ではない。私小説が好きなのならば勝手に読んでいればよいが、自分が読む羽目になるのが嫌なのだ。もう学生ではないし、特定の本を読むことを強要されることもないのだから、私小説なんぞに関わらないでいれば良いだけなのだが、たまにうっかり読んでしまうことがある。

Tilt-Shift Miniature Image of Big City Traffic in the Evening by Yuga Kurita (Getty Images)

 うっかり読んでしまった私小説の例としては西加奈子の『サラバ 』が挙げられる。直木賞受賞作なのでてっきりエンタメよりの作品だと思っていたのに読んでみたらちょっとポップなノリの私小説だった。

 西加奈子の洒脱な文体は好きだ。上手い書き手だと思う。私が許せないのは作家や作品ではなくこの作品に直木賞を与えた選考委員たちだ。芥川賞は純文学の短編または中編を対象とした賞で、直木賞は長編のエンターテイメント小説に贈られる賞である。過去の受賞作で私が好きな作品は池井戸潤の『下町ロケット』東野圭吾の『容疑者Xの献身』などだ。私はそういう作品を推薦してくれることを直木賞に期待しているのだ。佐藤究の『テスカトリポカ』東山彰良の『流』などの受賞作は必ずしも私の好みの作品ではなかった。が、それなりに楽しめたし、作品のレベルが高いということ自体は理解できるので、これらの作品が受賞した事に異議はない。しかし、私小説が直木賞を受賞するというのは意味がわからない。

 『サラバ 』では序盤からずっと主人公の生い立ちが語られる。内容自体は面白くないのだが、文章は良いので読むのはそれほど苦痛ではない。さて、そろそろ死体が転がるのかな? という私の期待に反して、凡庸なエピソードの描写が続き、幼稚園の頃に好きな子に特定の色のクレヨンを渡したというようなどうでも良い話が延々と続いた段階で私は挫折した。とてもじゃないがこのノリで小学校や中学校の頃のエピソードまで続けられては耐えることができない。

 おそらくこのような些細なエピソードでも「あー、わかるわ〜」と共感できる人はそれなりに楽しく読み進めていくことができるのだろう。あるいは私が日本語を学習中の外国人だったとしたら、なるほどアッパーミドルの日本人はこのように感じるのか、と詳述される感情の機微に感動することができたのかもしれない。私はどちらでもなかった。主人公に共感できなかったし、かと言って主人公が嫌いなわけでもない。この主人公に対してまったく興味が持てないのだ。「お前の人生なんてどうでもいいよ」という白けた思いしか湧いてこなかった。

 最近読んでしまったもうひとつの私小説が又吉直樹の『劇場』だ。ちなみに私は52歳なので「最近」の定義がかなりゆるい。下手をすると十五年ぐらい前の話でも脳内で「最近」と認識していることがある。

 又吉直樹のデビュー作であり芥川賞受賞作となった『火花』はそれなりに楽しめた。芥川賞受賞作なので読む前から純文学であるというのは了解しているし、長い話ではないので読了するのもそれほど苦ではない。芸能人に受賞させることで売上が期待できるという出版社側の事情を考慮しても十分に受賞に値する作品だったと思う。

 もし『劇場』『火花』と同じぐらいの長さだったら最後まで頑張って読むことができただろうが、私には辛すぎた。二章の途中で一旦読むのを断念して、一念発起して再び読み始めたが四章のあたまに痛いメールを送っているところで挫折した。

 若い頃に過剰なまでにオリジナリティに拘って音楽制作をしていたので、私は主人公である永田の気持ちは痛いほどよく分かる。だが、それが逆に読むのがつらい原因となった。今となっては自分の中である種の黒歴史となった過去の自分の自意識過剰なメンタリティ——後悔こそしていないものの、今となっては恥ずかしくて心の奥底にしまい込んであるブラックボックスをこれでもかとばかりにこじ開けてくるような作品だった。

 永田の想いは理解できるものの、共感はできない。自分自身も他人も傷つけてしまう痛い人間であるということを本人も自覚しているはずなのに、矢鱈と人と関わりたがる。あなたの個性を否定するつもりはまったく無いけれど、独りになったらいいんじゃないの? どこか田舎にでも引きこもって隠者として過ごせばいいじゃない。

 孤独は嫌だけど、自分自身を曲げるのも嫌、それなりに才能はあるがそんな我儘を押し通せるほどの圧倒的な才能や権力はない——というような状況にある人間が駄々っ子のように目に見えない刃物を振り回している。それが永田だ。

 自己を投影した主人公を美化することなく、むしろ駄目な部分を過剰なまでに掘り下げるという作業はとても辛かった思うし、独りの人間としてこういう作品を書き上げたことはすごい、とも思う。作者にとっては自分自身と向き合い克服するためのある種のセラピーだったのかもしれない。だが、私にとっては古傷を穿つナイフのような作品だった。

 こういう作品を書くという行為自体はすごいことだと思うが、商業ベースにのせて出版し広告宣伝をして世間全般に広く発表するというのは、精神的な意味で露出狂のような行為だと思う。要約すると「このように私はこじらせちゃった駄目な人間です。だけど才能はあります。だから私を愛して、受け入れて」というような作品だったのではないだろうか。最後まで読んでいないので本来であれば要約する権利はないのだろうけど、そういう作品だと思う。

 世の中には彼よりよりも不幸な人間がたくさんいる。彼よりも更にこじらせちゃっているのに言語化する能力が無いために心の内にずっとしまっている人もいるだろう。だけどそれで良いんだと思う。人からの共感や受容などを欲せず、ありのままの自分を自分自身で受け入れる。ただそれだけでいい。「犀の角のようにただ独り歩め」というブッダの言葉を永田には贈りたい。

 と、ここまで書いたところで「なぜ日本では未だに私小説がもてはやされているのか?」という表題に対する答えがまったく記されていないことに気がついた。

 まず思いつくのは日本社会の特異性だろう。コロナ禍を通して私がつくづく感じたのは日本は「自発的全体主義」だということ。世界史のコンテクストとしては第二次世界大戦までの日本はファシズム国家だということになっているが、実態はイタリアやドイツとはだいぶ異なる。特に海外において、東條英機(場合によっては昭和天皇)をムッソリーニやヒットラーのような独裁者とみなす論調を目にするが、実態はだいぶ異なるものだったのだと思う。日本人は独裁者や特定のイデオロギーなどを必要とすることのない無自覚的で自発的な全体主義者の集まりなのだ。日本人だったら当然こうでしょ、というのを当然のように押し付けあっていて、かつ我々はそのような押し付けに対する抵抗力が弱い。「私はわたし、貴方はあなた。お互いの権利を侵害しないのであればお互い自由にやりましょう」というリベラリズムの根本原則があまり社会に浸透していない。芸能人の浮気やドラッグ使用など、自分の生活にはなんの関係もないはずの出来事に大げさに反応するのはその良い例だろう。その根底にあるのは「俺が我慢してるんだからお前も我慢しろ」という足の引っ張り合いのような同調圧力だ。

 アリストテレスを持ち出すまでもなく人間は社会的な動物である。その一方で我々は個性を持った個人でもある。日本の社会は欧米などの諸外国と比べると「公」の部分が大きく「個」の部分が小さい。普段の生活の中で抑圧されている個は社会的に糾弾される心配の無いところで自己主張をしたがる。キャリア選択や生き様で自己主張しない代わりに、ちょっと変わった車に乗ったり、あまり一般的ではない名前を子供につけたり、マイナーな銘柄の酒や煙草やお菓子などを好むというのはよくあることだ。そのような制限的な自由のみを与えられた個が日常の中での些細な出来事やその感じ方によって自分の個を控えめに表現する——というのが私小説の醍醐味のひとつなのかもしれない。上記の例で言えば、西加奈子の『サラバ 』はこのパターンに当てはまるのだろう。そのような日本社会の本流から外れて社会の隙間でさりげなく息をしている私のような存在が共感できないのは当然なのだ。親が敷いたレールをただ歩いてきた人生だった——とまでは言わないまでも、ベルカーブの標準偏差範囲内からはみ出さないように常識的な選択を積み重ねてきた——そういう人にはより刺さりやすいのでしょう。

 私小説が受け入れられるもう一つの理由が怖いもの見たさでわないだろうか。あるいは自分とはまったく違う種類の人生を生きてきた人への好奇心でしょう。又吉直樹の『劇場』はどちらかといえばこちらのタイプだと思う。この主人公に共感して感情移入できる人ってあまりいないと思うんですよね。これが「僕」という一人称の私小説ではなく、三人称の冷めたルポタージュ風の文体だったらもう少し興味深く読めたと思う。あるいは精神科医が語り手でも面白そうだ。酒鬼薔薇聖斗を名乗った元少年Aの『絶歌』などが例としてはより適切かもしれません(実際には未読ですが、一人称で書かれていることだけは確認しました)。犯罪者に印税が渡ってしまうのを危惧して読まなかった人も多いと思いますが、興味をそそられるのは事実でしょう。例えば北海道の牧場で、清純派のアイドルが全裸の状態で発見され、馬に蹴られて大怪我を負っていたとします。そして自分の獣姦趣味を赤裸々に告白した『スタリオンと私』なる本を上梓ししたとしたら、たとえそのアイドルにはそれほど興味がなかったとしても思わず手に取ってしまうかもしれません。

 一応まとまったような気がするのだが、ここまで書いたところでなにを持って私小説とするのか、その定義について一切触れていないことに気づいた。ブリタニカ国際百科事典小項目事典には「文学用語。作者自身の経験や心理を虚構化することなく,そのまま書いた小説」とある。Wikipediaによる定義は以下の通り。

私小説(わたくししょうせつ、ししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして、ほぼそのまま書かれた小説をさす用語である。心境小説と呼ぶこともあるものの、私小説と心境小説は区別されることがある。日本における自然主義文学は、私小説として展開された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B0%8F%E8%AA%AC

 そもそも自然主義文学とはなんぞやという人も多いと思う。19世紀後半にフランスを中心に始まった文学運動で、自然の事実を観察し真実を描くためにあらゆる美化を否定する、というものらしい。しかし私小説はたしかに美化を否定しているけれど、そこで描かれているのはあくまでも主観的現実にすぎないと思うんですよね。真実と断定することはできない。このあたりを掘り下げるとかなり面倒なことになりそうな気がするので放置しますが、私が漠然と思っている私小説の定義を言語化すると以下のような感じでしょう。

作者の経験や感情の動きを改変することなく微に入り細を穿って詳述した一人称による小説。プロット、謎、脚色、巧妙に設置された伏線、デフォルメされたキャラクターなどのストーリーをより面白くするための技法の使用を頑なに拒否し、繊細な感情の動きや感覚の描写を延々と続けることに価値を置いている。

 だったらさー、一人称で自伝を書けばいいじゃん。あなたに興味があったら読むし、あなたに興味がなければ読まないからさ。というのが私の私小説に対する基本的なスタンスです。自分の経験に基づいて小説を書くこと自体は良いことだと思う。そのほうがリアリティや説得力がある。だが、読者を飽きさせないために謎を提示したり、しっかりとプロットを練り上げることの何が悪いのだろうか?

小林秀雄が『Xへの手紙・私小説論』という本を書いているようなのでこれを期に一読してみることにする。私小説に対する私の考えが変わることがあればまたこのテーマで文章を書くかもしれない。