大阪都構想と日本人のメンタリティ

橋下徹氏を全面的に支持するつもりはない。賛同できない意見や行為も多い。しかし、この大阪都構想自体は試してみる価値があるのではないかと思っていた。しかし、蓋を開けてみると結果は僅差ではあるものの否決だった。

日本人というのは行き着くところまで行かないと改革できない民族なんだな、と改めて思った。少子高齢化などの国の根幹に関わる多くの問題も、平時の政権が改革で解決するのは不可能だろう。何しろ高齢者が一番の票田で、若い世代より投票率も高いのだからどうしようもない。口では改革を望むと言いながら、本心で望んでいるのは現状維持と先送りという人間が多いのではないだろうか? そしてその実体は緩やかな衰退である。失敗するかもしれない改革よりもゆるやかな衰退を選んでいるのだ。そして、その緩やかな衰退の責任の一端が自分にもあるという自覚は国民にない。日本で行われた社会の抜本的な改革というと、古くは戦国時代の織田信長の改革だとか、明治維新だとか、第二次世界大戦後のGHQ主導の改革などが思い浮かぶ。大戦後の政権下で改革が行われたことは一度もないし、これからも無さそうだ。

井沢元彦がいうところの『和至上主義』というのは確かに存在しているのだろう。必ずしも悪いものではない。日本の治安の良さはこの『和』の精神に起因すると思うが、同時に『村八分』や『出る杭は打たれる」といった言葉が『和至上主義」の闇を表している。これが根強く残っている限り、日本の社会で改革者が成功することは難しそうだ。和を乱さないと改革なんてできませんから。橋下氏本人も言っていたが、改革というのは既得権益を得てる人たちから嫌われないと絶対にできない。橋下氏の敗因として彼が嫌われすぎたことを挙げる人がいるが、結局、それは改革そのものが不可能だと言っているのと大差ない。大阪の未来を考えて投票した人よりも、「橋下さんってなんとなく和を乱して、みだりに世を騒擾しているような感じがするから、とりあえず反対しよう」といった感じで、和を尊ぶ精神の暗黒面が出てしまったような印象を受けた。

全国的にはまったく知られていないかもしれないが、私の故郷でも規模こそ違うが似たようなことがあった。当時の草加市長だった木下氏が市議会議員の定数削減を公約に再選を目指したところ、共産党から自民党までを含む大連合が出来上がって対立候補を擁立し、木下氏の改革とは直接関係ない彼のスキャンダルを暴きだして市長の座から追い払った。共産党と自民党って主義主張がぜんぜん違うはずでしょ。なんで一緒に戦えるの? と疑問に思うのだが「議員の数を減らされたら権益を失ってしまう」という一点で一致団結したのだ。つまり彼らにとっては市の財政がどうなろうと知ったことではないし、政治的な主義主張の違いなど大きな問題ではない。市というシステムに寄生して最大限の利益を得ることこそがプライオリティなのだ。これからも似たようなことがいろいろな自治体で起こるだろうが、どこでもいっしょだ。結局、破綻するまで変わらない。

で、行き着く処というのはなんだろうかと考えると、やはり地方も国家も財政が完全に破綻してしまうという状況が思い浮かぶ。改革者になりたい人は力を蓄えながらそのタイミングを待ったほうが良いかもしれない。破綻する前に救ってやろうと滅私奉公の精神で働いても嫌われるだけだ。日本の社会で平時に改革を志しても無駄である、ということを示す例がまたひとつ増えた。

コメントを残す