月別アーカイブ: 2015年9月

Delayed GratificationとInstant Gratification

高年収層は便意我慢する傾向

便意を我慢する人のほうが平均年収が高いというような論旨の記事が出ていた。最初は馬鹿げた話だと一笑に付していたが、どうも気になる。はずがしながら最近だいぶトイレが近くなってしまったのだ。このまま行くと収入がどんどん下がってしまうのではないかという、恐怖心に駆られてこの事についてちょっと考えてみた。

Delayed gratificationというのは心理学の用語で「将来のより大きな成果のために、自己の衝動や感情をコントロールし、目先の欲求を辛抱する能力」という意味である。脳科学やポジティブサイコロジーの洋書を読んでいると頻出する単語なのだが、Wikiの日本語ページも無いし、英辞郎にも載っていないところをみると、どうも日本語訳がまだないらしい。

反対の意味の言葉はinstant gratificationになると思う。つまり「将来のことを考えると好ましくないのだが、自己の衝動や感情をコントロールすることができずに、目先の欲求に負けてしまうこと」になるだろう。instant gratificationの追求が極端にひどくなると衝動制御障害 (ICD (Impulse Control Disorder)) と呼ばれる精神疾患を患い、放火、窃盗、病的賭博などの反社会的行動を取るようになってしまうという。

偉人でもなければ精神疾患者でもない一般庶民の大多数は、instant gratificationにしばしば負けつつも、生活が崩壊するほどは負けていない人たちだと思う。たとえばジャンクフードの誘惑にしばしば負けて自分の理想とする体重よりもだいぶ重くなってしまっているとか、ついついリボ払いでクレジットカードを使ってしまい、貯金が一向にたまらないとか、健康を考えると煙草をやめたほうが良いのは分かっているが、どうしても禁煙できないとか、そういう人は多いと思う。

かくいう私ももう少し痩せたいと思いつつBMI27程度のプチ肥満状態が続いている。やはり一番の原因は小腹がすいたらすぐにジャンクフードを食べてしまっていることだろう。つまりinstant gratificationに負けているのだ。

私が自分の人生で一番痩せていた時期というのはインドにいた時期で、思えば当時は修行モード全開だった。断食はもちろん便意や尿意も極限まで我慢していた。あまりやり過ぎるのも、栄養失調や膀胱炎などのリスクがあって問題だと思うが、健康に問題ない程度に行う分にはdelayed gratificationを追求する上での訓練になるかもしれない。

トイレに行くことができずに不本意ながら尿や便を限界近くまで我慢した経験がある人はわかると思うが、あれは我慢している間は大変苦しいのだが、そのぶん放出するときの快感もまた大きい。

もちろん、便意を我慢することと収入との間に直接的な関係は無いと思うが、この習慣によりdelayed gratificationを追求する能力が向上する可能性はあると思う。そしてdelayed gratificationの適用範囲はこのような身体的な欲求に留まらない。

たとえば、医者になりたいので同級生たちが遊び呆けている間に勉強して、医者になってから高収入と社会的なステータスの高さをエンジョイするとか、同僚が通勤途中にスマホゲームで遊んでレアカードをゲットしようと夢中になっている間に、同じ時間を読書や資格勉強に費やして自分自身をレアな人材に育て上げるとか、そいうこともdelayed gratificationの顕れなのだ。だからdelayed gratificationを追求する能力を仮に「DG能力」とすると、便を我慢する習慣がある人は知らず知らずのうちにこのDG能力を強化していて、結果として高収入に繋がっているのかもしれない。

その一方で、大衆がinstant gratificationを求める傾向は年々加速しているようにも思われる。ジャンクフードやインスタント食品の氾濫は言うまでもないが、音楽にしてもヒット曲はイントロや間奏をできるだけ短くして、一番美味しいサビを1分以内に聴かせるようなものが多い。最近のテンポの良いハリウッド映画に慣れてしまうと、過去の名作を見ても途中で手持ち無沙汰になっていらいらして貧乏ゆすりをしてしまったりする。ベストセラー作家の東野圭吾の小説なども素晴らしくテンポがよく、文章の味わいを追求したり、情景描写に余計な文言を割いたりせずに、読者に素早く次のシーンを提供していく。手軽にできるブラウザゲームやソーシャルゲームの流行などもその一例と言っていいだろう。

そう考えると、自分の人生においてはdelayed gratificationを追求しつつ、自分の創作物や自分が提供するサービスは人々にinstant gratificationを提供するというのが、現在の世の中における成功の方程式なのかもしれない。

まぁ、私の人生にはちょっとdelayed gratificationが足りないと思われるので、ちょっとエクセサイズしてみようかと思う。とりあえずトイレにいくのを我慢しながらこの原稿を書いてみました。

“Delayed gratification is the key to success but make sure that your creations or services provide people with instant gratification.” – Yuga Kurita

『やばい』は褒め言葉らしい

「やばい」は褒め言葉? =「婚活」「イクメン」も9割浸透―国語世論調査・文化庁

『やばい』を素晴らしいというような意味を込めて、ポジティブな形容詞として使用する人が、全国民の約25%、20代では約8割、10代ではなんと約9割と若い世代では完全に定着しているらしい。

若い奴等やばい!

と思わず、40代の私としては残り75%の方の定義で呟きたくなるが、言語は生き物だから仕方ないのだろう。何を見ても『かわいい』という形容詞で済ませようとする女にもいらっとさせられるが、そのうち日本語の口語で覚える必要がある形容詞は『かわいい』と『やばい』だけになったりして。そうなったら外国人が日本語を学習するのはだいぶ楽になるね。

なんとなく、ジョージ・オーウェルが小説1984に書いた『Newspeak』的な方角に自主的に向かっているようで、日本は各個人が自主的に没個性的な人間になる全体主義社会なのではないかなどという憂慮すら感じてしまう。が、英語圏でも『awesome』のような元々宗教的な響を持った言葉が『plusgood』みたいなノリで使われるようになって久しいし、ある面グローバルな現象なのかもしれない。強権的な政府が恐怖と暴力を駆使して行う全体主義とは違う、民衆が自主的に自主性を放棄した全体主義みたいなものが出現するのかもしれない。

しかし、これだけネットが普及した社会で、言葉の意義がこんなに綺麗に世代で別れる事実は瞠目に値する。昔はTVなどのメディアが圧倒的な存在感で支配していたので、日本人の没個性的な傾向は、意図的に流行を創始して消費を煽るメディアによるところが大きいと思っていた。が、若い人のほうがTVを見ている時間は短いらしいので、一概にそうは言えないのかもしれない。

デジタルネイティブ世代といっても定義が色々あるようだが、物心ついた時から携帯電話やスマートフォンを持っていて、メール、SMSメッセージ、SNSなどで常に他人とつながってコミュニケートするのが当然だという世代は、良くも悪くも没個性的になって、価値観などを共有しやすく、強固な集合的無意識を形成しやすいのかもしれない。『talking ‘bout my generation』などと歌う必要のないぐらいの阿吽の呼吸で意思を疎通しているのかもしれない。

まぁ、若い子とあまり話してないので、かなり的はずれな意見かもしれません。単なる思いつきでございます。とりあえず、『やばい』のこの定義は、他の世代には通じないという自覚を持っていただければ、それで結構です。